珍しく眠るよりも遊びに来るほうを選んでみれば、訪ねた相手は見事に昼寝中だった。すやすやと気持ち良さげに起きる気配の微塵も感じられない寝顔を見ながら、春眠の季節でもあるまいに、よくぞまあこれだけ眠れるものだと、いつもの自分を棚に上げてため息をつき、紫は縁側に腰掛ける。
もう春ではない。だが、良く晴れ、風は適度に涼しく、心地良い日だった。良い天気ねえと一人呟く。と、庭の向こうのほうから駈けてくる足音がした。物騒にも抜き身の刀を引っ提げ息を切らして、しかしその剣呑な装備とは裏腹な可愛らしい姿で、何だ、あなたかと、妖夢は少し気が抜けたように言った。
「今日も庭のお手入れ?」
「庭師ですから」
腰の鞘に刀を仕舞いながら、真面目腐って妖夢は答える。紫は笑う。何処の世界に日本刀を振り回して剪定に励む庭師が居るのか。だがここは現世ではない。そんな常識は野暮である。
晴れた空は青かった。幽々子は本当によく寝ていた。起こしてやろうかとも思ったがやめにした。せっかく寝ているのに、というのもある。起こしたところで目を覚ますことはなかろうというのもある。最早幽々子は亡霊であり、従って命がその維持のために眠りを必要としているわけではない。それなのにこの亡霊はよく食べよく眠りよく笑い、およそ亡霊らしくはない。それが良いと、紫は思っている。生きていた頃の、今となってはもう本人ですら知らない幽々子を思い出すたびに、なお強く、そう思う。
真面目な庭師は姿を消したと思うと茶を持って縁側に戻ってきた。入れ物は三つである。彼女は紫に一つめを渡し、次に眠ったままの主人の近く、ただし寝返りでひっくり返してしまわないような位置に二つめを置き、三つ目を自分の側に残して盆をちゃぶ台の上に置いた。どうせ茶が冷めるまでにこの居眠り娘は目を覚ましなどするまいに、律儀なものだ。
出された茶を飲む。ふうと一息つく。縁側への日差しを適度に遮る梢は見目も美しく整えられている。上手になったものねえ、と紫が感嘆してみせると、けれど剪定も剣術もまだまだですと妖夢は答え、苦り切った様子で、特に剣術が、と付け加えた。その様子を見て紫はさらに笑う。菓子が欲しい、稽古は嫌だ、腹が減った、そんな他愛もないことで頬を膨らませ拗ねるのが似合いの子供のなりで、事実言葉さえ聞かず姿だけを見ていればそんなふうに駄々をこねている子供なのだと錯覚してしまえそうなのに、この厳格さはどうだ。とはいっても、この子供はその年齢ほど心は幼くは無い。それは大人びているという意味ではない。重ねた年月の数は、既に大人なのだ。
「ねえあなた」
聞いてみたいと思っていたことがある。
「何でしょう?」
それは多分不躾で無神経な問いでもある。だけれどもそれを知るには聞いてみるしかないのも確かである。だって妖怪である自分はどのように生きたとしてもけして知り得ないことだからだ。
「そんなにも長く生きていてあなたつらくはない?」
妖夢は少しだけ目を見開いた。そこにあるのは驚きか。戸惑いか。その奥に答えはあるのか。紫はじっと妖夢を見詰めた。
生まれながらにして半分は人 半分は幽霊。人でありながら人よりも遙かに長い生命を約束された一族。この子供は八十などと言わずその数倍も数十倍も生きるだろう。それでも。その心は人以外になれはしないのだ。
年を重ねる。身体はゆっくりと成長する。普通の人間が衰え死ぬような年月を過ごしてもまだ、その身体は成長という言葉で表すにふさわしい変化しか見せない。その内側で、心は、しかし確実に老いてゆく。人は八十やそこらの年月を生き老いて死に往く生き物。心も身体も、そのようにできている。もとより永くを生きる妖怪ですら時に飽いてしまうような永の年月を、平穏に無事に穏やかにはけして過ごせはしない。
永遠を生きるには脆い心を抱えて永遠を往くものの隣に立ち続けるこれまでをこれからを、子供の身体の内側で、厳密には大人ではなくとも大人になるまでの年月を擦り切れてきたあなたの心はどう思いながら見詰めているの。紫はそれが知りたかった。
妖夢が笑う。かすかでありながらそれでいて濃い、あきらめではなくどちらかというとよろこびを、そのうすく曲げた唇に感じ取る。
「つらいという言葉の意味が、この命を疎み恨み捨ててしまいたいと願うことならば、私はつらくなどありません」
笑う。それは子供のものではない、だけれども大人の狡猾や打算や諦観はそこにない。
「長く生きてその分多くの悲しさや苦しさに出会っても、その分長く、ずっとずっと長く、ここに居られることが、私はとても嬉しいから」
紫は、つらいという答えを期待したわけではない。だが予想はしていた。他の可能性など考えず、ただ、どれほどつらいか、どのようにつらいか、それを語る言葉が返ってくるものだと思っていた。だから妖夢の答えを聞いて、少なからず驚いた。そして嬉しかった。
「そう」
紫は楽しげに頷いた。私を人間一般の基準にして尋ねるのがそもそも間違っている気がしなくもありませんけどと妖夢が付け加えるのすらも楽しかった。確かにそれはそうかもしれない。人の身に永の時が重荷なのは事実である。妖夢も否定はしなかった。そしてそれを甘受してなおも嬉しいと言い切れることが希有なのだ。だからこそ紫は余計に嬉しいのである。だってその意味するところは。その苦しみや悲しみを知ってなお、終わりある安らぎよりも傍に居続けることを選ぶということではないか。
「幽々子は幸せね」
当人は眠り続けている。狸寝入りでも何でもなくただただひたすら眠っている。気の抜けたその寝顔に目をやりながら、紫は婉然と笑った。
「私にはお嬢様がどう思われているかはわかりませんが、もしもそうなら、私も幸せです」
妖夢も誇らしげに笑った。
空は、良く晴れて青い。
妖夢は幽々子が自分自身の存在で嬉しかったり楽しかったり救われたりしているという自信をあまり持っていない。だけど。紫はこっそりと心の内だけで呟く。
まだまだ半人前よ、とは、妖夢を指した幽々子の言である。二本の刀を一生懸命振り回し庭木の剪定をする様を遠くに眺め茶をすすりながらの一言は、前回ここを訪ねたときのものだったか。それともさらにもうひとつ前か。随分上達したわねえという紫の妖夢に対する評価への返答だった。
『なら、他の側仕えを連れてくればよいのではなくて?』
至極もっともな一言を、紫は返した。幽々子はきょとんとして少し目を見開きまぶたをぱちぱちと二度、三度またたいて、それから遠くで脚立も使わず飛び上がっては両の手の刀一閃枝を落としてゆく(庭師としてはひどく変わり種、というか間違っている気がしなくもない)妖夢に目をやり呟いた。
『半人前よ。生きてるか死んでるかもわからないし、でもたぶん生きてるのだと思うけれど、それで』
幽々子はいくつもいくつも言葉を並べ、いかに妖夢が半人前かを気分で生きる彼女にしては至極わかりやすく述べて見せた。妖夢を全く知らない者であっても、ああ、なるほど、それは半人前であるのだろうなあと思ってしまうほどの力説であった。柄にない熱心さだった。思い出すだに紫は笑ってしまう。
そうやっておよそ彼女の中のありとあらゆる語彙を総動員して妖夢の半人前っぷりをこれでもかと並べ立てた後、けれど幽々子は。
でも。
いないとこまるの。
そう言った。
妖夢でないとこまるのよ。
――そう、言ったのだ。
2007年夏コミ発行「スターリット・スターライト」に掲載の内の1本
サンプルとして公開