しとしとと雨が降っている。まるで雨と霧の中間のような、直中に立っていればまるで水に浸かってでもいるのではないかと錯覚してしまいそうなほどに細かく濃密な雨だ。大きな木の下にいてもおかまいなしで、帽子も髪も服も、すでにたっぷりと水を含んでいる。遙か遠くの分厚い雲を見やり、空が溶けてくるようだと、にとりは思った。それから自分の右隣に視線を移した。
そこには同じように頭の天辺から足の爪先までびしょ濡れの雛がいた。じっと遠くを見詰める横顔には、深緑と同じ色をした髪と、熟した林檎のような真っ赤なリボンが、ぺったりと張り付いている。雛の眺める先は、はっきりどことは定まらない。鈍色の雲が立ち込めている空だったり、麓の里だったり、緑茂るそこらの山だったりする。
柔らかい苔と草に覆われた木の根本に、にとりが見つけてきた座布団ほどもある大きな葉を敷いて、二人は雨宿りをしている。だがこれだけ濡れてしまえば、木の下での雨宿りなど最早意味を為さない。そもそもこの雨では、木の枝など雨を防ぐ足しにならない。だから最善は雨が降り始めたときに早々に帰途につくことで、次点はずぶ濡れになったあたりで諦めてさっさと帰ってしまうことだった。だが二人は一向に立ち上がらず、いつまで経ってもその場を離れようとしなかった。
にとりは雛から視線を外し、空を振り仰ぎ、目を閉じ、ひとつ大きく深呼吸をした。頬を薄く覆うように流れ落ちていく雨水が心地良い。そもそも彼女は河童である。水の中が本領だ。濡れてもさしたる痛痒も感じないどころか、爽快ですらある。清流とはまた違う、初夏の雨のぬるい感触は、それはそれで面白い。服や髪が皮膚に絡み付くのも、そこを水が流れ落ちていくのも、一興だ。
しかし雛は違う。
「早く帰ればよかったね、ごめんね」
滑り落ちていく水滴を快いと感じることに少しの罪悪感を覚える。
「私は河童だからいいんだけど」
雛の鼻の頭から、まん丸い大きな滴がぽたりと落ちていくのが見えた。それと同時に、雛が口を開いた。
「私だって平気よ」
でも、と食い下がるにとりに対し、雛は空に視線を向けたまま、さらりと言い放った。
「忘れたの、私は神様よ。こんな雨に少々濡れたくらいじゃ何ともない」
雨の中しゃんと背筋を伸ばし座っている姿は濡れ鼠だからといって何も損なわれない。それどころか美しくさえある。なるほど彼女は確かに雨くらいではびくともしない。こんなささやかな空の気まぐれに害されるようでは、神など務まらないのに違いない。だが、にとりは、それだからといってはいそうですかと納得はできなかった。
だって知っているのだ。くるくると空を飛んでいる姿を雨の日には見かけたことがない。それは雨に濡れるのを避けてではないのか。そこらの人間のように風邪を引いたり熱を出したりということはなくとも、濡れること自体は好かないからではないのだろうか。
にとりが何も言い返せず、しかし引き下がることも出来ずにいると、雛はやっぱり視線は空のまま、たまには濡れてみるのもいいものね、と、付け加えた。
雨が次第に薄くなっていく。ぱたぱたと草むらを叩く音が軽く、細く、止んでいく。降り出したときと同じように緩やかに、そして静かに、雲が引いていくのが見える。少々名残惜しむ心持ちでにとりが雲の行く末を眺める隣で、雛は、雲の隙間に見えては隠れる晴天を見やりながら、ぽつり一言、私は神様なんだから他人に従う必要なんてないのよ、と、独り言のように呟く。
ぱっと跳ねるように、にとりは雛の横顔を見た。雛は機嫌良さげにしていた。少し笑っていた。見ようによってはどこか照れているようにも受け取れた。そこでふとにとりは思い出す。
あの木の下で雨宿りをしようと言い出したのは自分だった。雛は帰ろうとも待とうとも言わずにそれに従った。あのときもしも自分が黙っていたら、雛は何と言っただろうか。「濡れるからもう帰ろう」? それとも、「もう少しここに居よう」? 後者だったのではないか。神様は自分の意にそぐわないことになど従わなくていいというのなら、あのとき雛にはここに残る意志があったということに他ならない。
雛はここに残りたかった。それは何故? ここは自分たちが普段居る場所から確かにそれなりに離れている。歩けば時間はかかる。折角来たのだからもう少し、という気持ちは、自分にはあった。半分くらい。いやもっと少なかったかもしれないが、とにかくあった。けれど空をゆく雛なら好きなときに好きなようにやってこれられる。あえて雨の降るこのときに、ここにいたいと、思うだろうか。もしも一人でやって来ていたならば。
にとりはあの木の下に大きな葉を敷いて座り込んだときのことを思い返す。もう少しここに居たいな、という気持ちの反対側には、もうすこしいっしょにいたいな、と、いう些細な思いがあった。
雛も同じだったのかなあ?
頬にほんの少し血が上ったのを、にとりは差し始めた日のぬくもりのせいにした。光が降りてくる。梢から滴り落ちる雨粒がきらきらと輝く。同じ緑の雛の髪からも、ぽたりぽたりと光が落ちていく。髪の、肌の輪郭を、光が縁取る。その様はとてもきれいだ。
「ねえにとり、ほら」
呆け気味だったにとりは、雛の声で、意識を現実に戻した。目の前の光景をきれいだと思うことに意識の大半が割かれていたことに、現実に立ち返って初めて思い至る。にとりは焦りつつも、雛が白い人差し指で指した方を見た。そこには細い虹がすっくりと立ち上がっていた。夕焼けに傾き始めた、青から金への空の境目に、七色の円弧が半分、伸びやかにかかっている。さっき横目に見た、背を伸ばして座る雛の姿が重なる。
虹の七色が、指さす雛の、濡れて光る爪から落ちる水滴に映り込む。虹の欠片を飾ったようだ。
あたりを見回すと、霧雨が残した湿気のせいか、枝先に草むらに花影に、そこかしこに小さな虹が見えた。
「待ってたおかげで、いいもの見られたじゃない」
何だか満足げに、どこか自慢げに、雛は言った。だからといって、彼女はこの虹を予期していたからここに留まったというわけでもあるまい。彼女は神様だが神様は万能ではない。厄を引き受けることが能力であり役目であって、予知はお門違いである。多分その言葉は、無駄に濡れさせたかも、と悔やむにとりを、気落ちさせまいとして口にしたのだろう。多分。多分、きっと。
他の誰かと居たのなら、虹なんて水滴で分光された太陽の光であって、それ以上でも以下でもないと、にとりは思ったかもしれない。得てして技術屋は物事を理屈で見がちである。けれど、今、目の前の無数の虹は、ただ、きれいだった。
「うん」
雛の言葉に対し、にとりは素直に頷いた。それを見て雛は笑った。いつもきちんと花のように結んだリボンは水の重みでくったりとしおれていたが、笑った顔はそんなこと関係なしに可愛かった。
傘をつくろう、とにとりは唐突に思い立つ。今度は傘をつくろう。光学迷彩みたいな科学を駆使したやつもいいけれど、たまにはただの傘なんてのも悪くない。どんな雨の中にだって、二人濡れずにおさまっていられるような大きな傘。色は何にしようか。模様はどんなのにしようか。ああいっそ、潔く透明でもいいかもしれない。雨空の景色がよく見えるように。雨上がりの虹を見逃さないように。
薄暗い灰色だった空が、明るさを増していく。雛はその晴れ間の一番青いところに目をやって、貴方の髪と同じ色、と指さした。眩しい太陽が、雲の陰から見えていた。
紅楼夢にとひな本 「そばにいてよ-そばにいるよ」サンプル
こんな感じの短編三本表紙絵装丁全部俺な感じの本になります